西方寺と、ゆかりのある名所・・一山名刹巡り紹介ゆかりのある七院・寺を紹介します。すべて長野市内にございますので、ぜひ一巡りしてみてください。 地図内1・・往生院、2・・観音寺、3・・円通院、4・・佛導寺、 ■往生院(安楽山往生院得行寺) (権堂町)善光寺七院の一つ。正治元年(1199)に浄土宗宗祖の法然上人が往生院(元の西方寺)とした。 ■観音寺(明助山普門院) (中御所)寿永二年(1182)年、源義仲追討と建久八年(1197)源頼朝公、善光寺佛参の折り当所に逗留し、漆田出羽ノ守元春に、自らの御守仏髻馬頭観音(六分五里)智證大師御作ニ位禅尼政子の御持仏の厄除観音(一寸一分)のニ躰を託した。 ■円通院 (栗田)戸隠寺大別当職の栗田氏城廊内の持佛堂であったが、上杉氏と共に栗田氏が会津へ移り堂も荒廃したので西方寺九世単譽雲秀上人徒弟法譽達現和尚が再興した。本尊は、栗田氏の持仏の髻如意輪観音像(一寸三分)金銅体内佛ち如意輪観音像である。 ■佛導寺(熊谷山一條院佛導寺) (若里市村)「平家物語」歌舞伎「熊谷陣屋」で知られる熊谷次郎直實蓮生法師が、文治四年(1188)に善光寺に参籠した時、二女の玉鶴姫も善光寺へ向かった。が、川中島の綱島で病にたおれ、川辺に倒れ伏していた所に善光寺如来が老翁となって現れ、船の綱を曳いて向こう岸に渡した。 ■蓮心寺(一行山朝日院蓮心寺) (若里荒木)浄土宗宗祖法然上人の弟子である朝日入道蓮心坊興隆が、建久六年(1195)2月25日に創建した。北国街道に面し、現在の善光寺造営の時に裾花川から犀川へ造営用の木材が流れ込もうとした時に、当時の阿弥陀如来が風を吹かせて木材の流出を防いだ史実から、当山の本尊阿弥陀如来は風吹如来と呼ばれている。木材を引き上げた所に木留神社が隣接する。 ■阿弥陀寺(朝日山阿弥陀寺) (平柴)本尊阿弥陀如来は、弘法大師が善光寺参籠の折、如来を感得し、弘仁三年八日に当地に足を留めて彫刻したと伝えられている石仏様です。古来旭山は善光寺領で、明治二十年代には大本願副住職勧修寺勇心上人持「朝日山阿弥陀堂」と記録された堂宇がありました。 ■随勝院 (西町)西方寺門前の善光寺七池の横、西方寺塔中にある随勝院は、正保3年(1646)に創建されました。
間口五間、奥行六間です。
西方寺が善光寺仮本堂の時に大勧進の役所となったと伝える安永二年(1773)に火災にあい、文政五年(1822)に西方寺の僧、清譽が荒木村吹上大石燈建立の時にそこへ移転する願いがあった。しかし西方寺末の報恩寺本堂随勝院を新たに建立し、常夜灯、高灯籠が合わせて建立された。
そして随勝院は明治34年(1901)に改修され現在に至っています。 |
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