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ラマ・マニについて


チベットのタンカ(仏画)について物語を説くラマ・マニ・・・文化的な宝。

日本初公開 チベット伝承仏画の解説

チベットでは伝統的に町や村において秋から冬の間、多くの人々が広い家などに集まり、語り手が伝承する民俗説話を話すのに聞き入るのです。これら語り手たちはラマ・マニとして知られていますが、彼らはしばしば到る所に旅を重ね、チベットのタンカ(仏画)に基づいて物語を説き続けます。聞く人々を面白がらせるだけでなく、それぞれのテーマの伝統的、宗教的な解釈を用いながら、絵が象徴するものとその意味を教えてもいます。これは一般のチベット人が伝統的なチベット仏教徒の正しいあり方、また伝説やチベット仏教の主要な教えも学べる重要な方法になっています。仏陀の誕生の聖なる月の期間ラマ・マニが多くの村で仏と菩薩の物語を語っているのが見られますが、時には村中が物語られるのを聞こうと集まることもよくあります。そしてその語りが人を感動させたり、悲しく胸に迫るような時には皆共に泣き、あるいは機智に富み滑稽な時には笑いあいます。その間村の人々は真言陀羅尼を繰り返し唱えます。それは実に美しいで時であり、ラマ・マニがこの文化的な伝統の中で生き生きとした役割を果たし、村社会に調和と喜びが満ち溢れています。

ラマ・マニは多くの人々によって生きた文化的な宝であると考えられています。この伝統を保存するために、亡命チベット社会で生活している人々の中にいるラマ・マニの居場所を特定しようとある試みがなされました。悲しいことに、14万人を超える全てのチベット亡命村落の中で唯一人のラマ・マニだけが見つかりました。この男性は70歳代で亡命生活をしていますが、最近知られるようになったこの伝統の優れた継承者でした。

シェリー・ドナルド・ルービン財団からの資金援助によって、チベット基金はラマ・マニが伝統的なタンカの語りを生徒たちに教え、口承説話を語る伝統的な形態の存続を保障することを可能にしていく資金を提供されました。加えて、若いチベット人の映画製作者ツェリン・リタル氏と、ラマ・マニによって語られた7つの異なった物語を撮影するという取り決めがなされました。これは約35時間のフィルムと30分のハイライト映像として結実しました。35時間もののフィルムと2,3のコピーの30分版はインドのダラムサラにあるチベット・ワークス・アンド・アーカイブズ図書館に公文書保管と教育目的のために保存されています。全体で100部の30分版のコピーが製作され、75部のコピーはトゥクジェ・チョリン尼僧寺院の収益とするために販売されることになりました。チベット基金が六年前に創設したラマ・マニ・プロジェクトについて書いた概要があります。また30分バージョンのDVDの2,3のコピーもあります。



ラマ・マニの説話を語る技術とその伝承。

そしてそのラマ・マニのプチェン・ギュルメ師がネパールのカトマンドゥで、21人の尼僧に7つの異なった説話を教えられました。彼はまた3年前、ダラムサラのドルマ・リン寺とシュンセプ寺で尼僧達に口承説話を教えるために招かれました。彼は2,3週間の間教えられ、また戻ってくることに同意されていましたが、去られてすぐに亡くなられました。死の直前にギュルメ師は、ドルマ・リン寺に彼のさまざまな説話を描いたタンカの全てを寄贈するように託されました。現在ドルマ・リン寺はこれらのタンカをよく受け継いでいます。このようにシュンセプ寺とドルマ・リン寺の尼僧がラマ・マニの説話を語る技術を学んでいます。シュンセプ寺の創建者ロチェン・リンポチェが有名なラマ・マニ師であったので、このような伝統を保存することは理想的なことであるのです。また最も重要なことは、シュンセプ寺とドルマ・リン寺の多くの尼僧が将来教師になるであろうということです。この教授により口承説話の語りの技術は彼女たちのレヴェルの向上をもたらしたことでしょう。チベットにおいて在家の人々はラマ・マニ師から簡明な仏教徒の教え、特に業の法則と菩薩の物語について多くを学びました。それゆえに今回も亡命しているチベットの人々の中に誰か別のラマ・マニ師がいるかどうか探してみようとしました。有名なラマ・マニのプチェン・パサン師の娘であるマニ師のツェリン・ドルマ女史がポンタ・サレブ・チベット居留地にすんでいるということがわかりました。ツェリン・ドルマさんは現在ラマ・マニ師としては活躍していませんが、以前にラマ・マニ師として父のプチェン・パサン師に付いて西チベットの多くの町や村を回っていました。彼女は巧みに美しい調べの歌と詠唱で口承説話を語るそうです。またツェリン・ドルマさんによると、フンスルにパサンさんと言う名の別の年配のラマ・マニの女性がいるということです。


絵解き師 ラマ・マニ師来日予定の女性のラマ・マニ師・ツェリン・ドルマさんの略歴

マニ師ツェリン・ドルマ女史は1944年に、チベットのポロンに生まれました。彼女の父のプチェン・パサン師はチベットの南西地方ではよく知られたラマ・マニでした。子供の頃彼女は父について、ティンリ、シェーカル、ニャナン、そしてスルツォのような町や村を巡っていました。彼女は父親から口承説話の語りの技術を学び、10歳にはラマ・マニとして物語を語り始めました。彼女は卓越した語り手となり、父親が中国の占領による制限と迫害のために1960年代にチベットを離れる決断をするまで12年の間ラマ・マニの語りを物語っていたということです。父親はインドでラマ・マニとして彼の職業を続けましたが、亡命チベット人の常としてマニ師ツェリン・ドルマさんは道路の建設現場で最初は労働者として働き、後には織り手として絨緞工場に勤め、現在も商売等で生活せざるを得ない状況です。1989年?に彼女の父のプチェン・パサン師は亡くなりました。マニ師ツェリン・ドルマさんは彼の所有する全てのタンカをプチェン・ギュルメ師と、亡命しているチベット人のコミュニティーの中に口承説話の語りを保存するのを助けるために、同じ地域の別のラマ・マニに譲りました。
彼女はナンサ伝と共にペマ・オェバルの語りにも巧みであるようですが、彼女自身はペマ・オェバルの方が得意とのことです。彼女に1時間分の語りの準備をするだけでいいという旨を伝えたら、ついに彼女は日本への訪問に同意してくれました。


長野市・西方寺での記念事業に際して・・・。

ツェリン・ドルマさんは現在タンカを何も持っておられません。先のようにそれは彼女の亡くなった父のタンカ(物語の仏画)を全て、プチェン・ギュルメ師に渡してしまったからです。プチェン・ギュルメ師はインドに旅行中そのいくつかを失くしてしまっており、後には所有する新しいものと古いものの両方のタンカを亡くなる前にドルマ・リン尼僧寺院に寄贈してしまいました。今ドルマ・リン寺に2,3のタンカを借りられるように交渉して、ツェリン・ドルマさんが日本に持っていけるように予定しています。その他次のように考えています。

準備:
a) とても小さい天幕(チベットのジャヤブ)をおく。たぶん必要はないかもしれない。
b) 3つのタンカを天幕の下にかける。また1つということもありえる。
c) 7つの水を入れるボウルと1つのバターランプ、提供しているマンダラを設置する。
d) 彼女の近くにポイントバー(チャンタ)を置く。
衣装:
a) 明るいブラウス風のチベット衣装を着る。
b) 肩回りに栗色のスカーフかブライ・リンタンショールを着ける。
c) 日光を遮る帽子、あるいは適当なものならば似たものを被る。
プログラム:
a) 白いほら貝を吹く場合もある。チベットではこれは人々を招待するために行われる。
b) 短い祈りの言葉を唱える。完全である必要はなく、短い方がいい。
c) その日の主な語りを始める。一般に語りは丸一日かかると説明する。しかし今回は時間が短く限られているために、3つの部分に分けられている。すなわち、1部は悲しい物語、次は楽しいもの、3番目はより笑えるようなものを取り扱う。それぞれの合間には美しい調べのマニの詠唱がある。

以上のようなお知らせがありそれを要略しましたが、さらに詳細がわかれば後に掲載いたします。



2008年7月追記: 上記の、西方寺の記念事業(2007年9月22日、23日)で実際に行われたパドマ・オェバル伝のあらすじについてはこちらでご覧ください。


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